2007年08月05日

7月24日(火) 岡田×清水クラス レポート

ルールの中で動くことの退屈さ、そして面白さ

文・脇野定則(ボランティアスタッフ)

サミュエル・ベケットの名を知らない演劇人は少ない。彼の映像用作品クワッドの名を知らない演劇人も少ない・・・と思う。 思うと書いたのは、私が演劇人ではなくて、ただの演劇好きだからだろう。ベケットの名は知っていたけれども、観たことはない(と思っていた)。クワッドという作品名は知らなかった。
でもである、どうやら私は、テレビを通してではあるが、「クワッド2」を垣間観たことがあるらしいし、(岡田ゼミ渡辺クラスの課題)「行ったり来たり」も観ていたようだ。
その事実を、休憩中に清水氏に話したところ、驚かれたのである。どうやら、クワッドの「絵」を観た事のある人間が演劇人の中にも少ない(かも)ということらしい。
驚いた。
「読んでみて分からなくて、観ても分からなくて、初見の人は訳の分からないままに終わるだろうし」とは清水氏の言葉。・・・実際に、私の場合もそうで、2〜3分後には退屈してしまった気がする。清水氏はこうも言っている。「なぜ、(クワッドを)誰もやらないのかわかった。つまらないから」
そんな作品にあえて挑戦し、楽しみながら苦悩し堂々巡りをしながら結論を求める清水氏が面白かった。結局、このクラスに限れば、演出家のためだけのワークショップと言い切っても良いかも知れない。
岡田氏は「クワッドの稽古場を見せてもらっただけで、本当に感謝している」と清水氏を讃えて(?)いた。

そもそもクワッドという作品が何かの説明が要るだろうか。要るとしよう。
4人が正方形の周辺と対角線をすり足に近い歩き方で淡々と同歩調で歩くだけの話である(これを話といって良いかは疑問で、パフォーマンスというべきかも知れない)。
行動のルールは、
1.角に立った人間は、中心に向かって右側の隣角に向かって正方形の1辺に沿って歩く。
2.隣角に辿り着いたら、向きを換え対角へ向かって歩みを進める。
3.正方形の中心では最大4人が交錯するので、右側に一歩ずれて、やりすごす。
4.対角に辿り着いたら、「1.」の行動に戻る。
最初は4人とも正方形の4隅のすぐ外に座って待っている。まず一人が正方形に入り、歩き始める。少しすると2人目が入り、同間隔で3人目、4人目も入ってくる。
しばらくの間、4人は淡々と正方形を歩き続ける。4人の位置は常に(中心から見て)90度の間隔と等距離が保たれている。
やがて、1人、2人、3人と抜けて、最後に1人が回り続ける。これで1シーズンが終了である。
「クワッド1」では4回の入出が繰り返される(4シーズンで1作品)。出演者は色の違うマスクのようなものを被り、打楽器の音にあわせて、静々と歩く。情報が多い分、まだ。何とか観れる。
「クワッド2」というのもある。こちらは、1シーズン分だけで、長さは1/4だが、こっちの方が見るのは辛いと思う。4人とも、白装束で同色、そして音がないのである。
合計で20分程度・・・大丈夫か?観客寝てしまわないか?と思う。

さて、講義のように戻そう。
10分ほど遅れて教室に入ると、既に清水氏が岡田氏へ質問していた。
質問が発せられた経緯は良く分からなかったが、要は「舞台上で役者が抱くイメージの共有」についてらしい。
清水氏は「例えば、キャンプに行きました、とします。何人かで行ったことにして、彼らは『キャンプに行った』というイメージの共有はできても、キャンプの中での具体的な部分については、各人のイメージに濃淡(ずれ)が出てきます。演出家は、これをどう扱ったらよいのか」と言う主旨のことを尋ねていた。
それに対して、岡田氏の答えは端的には「ズレは気にする必要はない。無視しても良い」と言うことだった。岡田氏いわく「欲しいのは『絵』であり、その『絵』を見て楽しむことになる。楽しい『絵』を見るではなくて、『絵』を見て楽しむ訳です」「酒を飲むと酔っ払うけれど、これは人の体に酔いが発生するからで、酒の中には『酔い』は入っていない」
「イメージの共有の有無によって、見る『絵』が変わってくるのでは」と食い下がる清水氏に対して、岡田氏は「どういう絵かは殆ど必要ない」と切って捨てる。そして「例えば『去年、キャンプに行って楽しかったね』『うん、楽しかったね』という会話があったとして、この2人が『楽しかった』イメージとして思い浮かべるものが共有されていないことのほうが多いのだから」と付け加える。
岡田氏の言葉続く。
「俳優に必要なのイメージだけれども、(よく実効性のない)意味のないイメージを抱くことがある。この無意味なイメージに縛られることが怖い」
「俳優が舞台上に存在するだけでも大変なこと。『ここはどこで・・・』などという(不必要な)言葉を頭に思い浮かべることは弊害になる。実際には役に立たないイメージなのに、それが(役に立つと思って)イメージすることは、俳優にとって高負担になる」
「存在することと、与えられたセリフに対して、本当に役に立つイメージだけを高利的に抽出していくべきである」
これは、俳優に対して、というよりも演出家に対して「そうしむけるべきでは」という指南に聞こえた。

問答の後、クワッドの練習が始まる。
8人を男性と女性に2分して、片方が演じ、片方が見つめるという手法を取る。
清水氏からは「摺り足と1秒1歩のリズムを守ること」が求められた。
方向転換の方法や、視線のとり方、前方の人間に対しての躊躇をしないことなどが打ち合わせられて、まずは女性のグループから始まった。
途中で止められて、軌跡のとり方やテンポについての注文が入る。清水氏の「個々の動き自体には興味がなくなってしまった」との言葉が印象的。
練習が再開される。
歩みを気にしているせいもあるかもしれないが、猫背気味なのが気になる。背中を伸ばして、視線のみを落としたほうが美しいのでは、と気になる。
そう思って観ていると、これを能の様式でしたら面白いのではないかと思う。面を被り、きらびやかな色違いの衣装を纏って、扇を掲げて歩いたらさぞや綺麗だろうなと想像してしまう。クワッドを完成された様式美のものとして捉えている自分がいる(あとで思うと、この時点でベケットの罠に陥ってしまっていたのだろう)
次に気になったのが、正方形の外にいるときの体勢である。待つときには完全に気が抜けている。入る少し前に気合を入れ始めるのが分かり、直前になると気を張ってタイミングを見据えてしまう。そして、正方形から出た途端に一気にテンションが下がりきってしまうのである。この部分が「美しくない」と見えてしまう。待っている方にも、何らかの規則性を与えたほうが良いのでは、と思ってしまった。
どうやら、ちゃんと歩くことにだけ意識が行き過ぎている。これは渡辺クラスの「行ったり来たり」と逆かもと思う。向こうは、佇むことに神経が行き過ぎている気がしている。
通しでの演技が終わり、休憩に入る。
その上で、歩くことへの集中力の維持も難しいのだろう、後になるにしたがって「だれて」来てしまったようにも感じる。

休憩へ入ることになるが、その前に清水氏が質問「役者自身の個性(キャラクター)について、どう対応されていますか?」
岡田氏答えて「キャスティングの段階では、基本的に変だと思う者・・・僕が好きだなと感じるキモさを持った者を選んでいる」「役者の個性は、最終的には舞台で生きてくる。だけど、個性を生かすのも殺すのも簡単で、それは技術(レベルの話になる)」「(個性を)殺さない加工、増幅させる加工ができる技術が必要で、それをインストールしてやるのが僕の演出(方法)」「僕がインストールしたものを、俳優が出していく方法は自由があって良いと思う」

休憩後。
歩み方等について、清水氏から若干の注意があった後に、男性グループのリハーサルが始まる。
女性グループに対して動きが大胆で、それが良い感じに見える。ただ、やはり、中央部での交錯時の動きは美しくない。
後半になるに従って、疲れてくる(飽きてくる)のも同じなようで、「歩み」と言うものが乱れてくる。
方向転換をきっちりと鋭角的に行って、床に付けられたマークをしっかり踏んで行くことを最後まで心がける必要があるのではと感じる。突き詰めると、足のどの部分でマークを踏んで行くかまで考える必要が出で来るのではとも思う。
ただ、クワッドのルール(動き)を私が理解してきた(身体に入ってきた)のか、先ほどより「つまらない」感が少しだけ薄くなっている。・・・途中で一瞬眠くなるのは一緒だったが。

背たけの順でグループ分けをし、低い方がクワッド1を、高い方が2を連続で演じ、それをビデオ撮影する。
ビデオの準備の前にまた岡田氏と清水氏が談義。
「現場で手詰まりになったり、どうしますか」の清水氏の質問に「状況を素直に、正直に捉え直すことで、打開できると思う」と岡田氏。
その後の会話の展開が面白かったので、メモをたどって再現してみる。
清水氏「クワッドには、演出家が手を加える余地がないのでは?」
岡田氏「僕も、そう思った。(下手に演出を入れることは)無地のTシャツの方が良かったのに、何でそんな絵をいれてしまったの、ということになる」
清水氏「読んでみて分からなくて、観ても分からなくて、初見の人は訳の分からないままに終わるだろうし。当然なのだろうけれど」
岡田氏「当然は、ある意味残酷さを纏っていて。でも、それを認めて、やることは必要だし」
清水氏「(クワッドで)手詰まりになってしまったことが楽しいし、これがワークショップで良かったなと思う」
岡田氏「クワッドの稽古場を見せてもらっただけで、本当に感謝している」
清水氏「なぜ、(クワッドを)誰もやらないのかわかった。つまらないから。岡田さんは、クワッドの映像を見たことがありますか?」
岡田氏「見ているけれど、面白くなかった。だって、動いているだけだもの」
清水氏「(シンポジュームでは堂々と)やっぱり面白くなかったと言いたい。自信を持って(それを)映像にしたい」
会話を聞きながら、クワッドは、演出家が何かを導き出す作品ではなくて、付加したくなる衝動や葛藤と戦う作品なのかも知れないと思った。・・・それにしても、本当に最終日に「つまらない」と言うのかなぁ?

ビデオ撮りにはいる。正面にカメラを据え付ける。
相変わらず、歩みはバラバラだが、それでもバラバラなりのシンクロが出始める。特に、中心部ですれ違う辺りは美しいと思う瞬間が出るときもある。ただ、中心から離れると、バラバラ感が強くなるのも事実である。
やはり、時間が経つと、ダレてくる。演じる方も惰性になり、観ている私も疲れてくる。集中力の維持が難しいと思う。
終了して、出てきた感想に「(テレビ用映像作品なのに)テレビでの収録には向かない。20分の長回しで、間違ったら最初から撮り直しというのは嫌で、いつまで経っても収録が終わらない」と言うのがあり、妙に納得。
岡田氏の感想が微妙に変化してくる。「(クワッドは)つまらないけれども、これよりもつまらない作品はいっぱいあるよなと思えてきた。その意味では(クワッドは)だいぶ良い(作品といえる)。面白くはないけれど、何回でも観ることが出来る」「1回観たらもういいよ、だったらクワッドをやれよ言う作品はいっぱいあるよね」
対しての清水氏の応答が「クワッドがひとつの基準になってしまう」
私も、妙に納得。

ビデオを全員で観る。
楽しい。映像で観ると何だか楽しい。
周囲も、何となく楽しんで観ている。
よれよれと、うつむいて歩くのが妙に楽しい。アングル的にも楽しい。ミスをしてくれるのが楽しい。おたおたしてしまうから楽しい。・・・悪趣味だが、クワッドにこんな楽しみ方があるとは新鮮だった。
でも、と思う。クワッドにおいては、ミスをしても堂々と演じ続ければ、初見の者にはまったく分からない気がする。
このビデオを映像作品として、このままシンポジュームに提出しても良いのではと思えてくる。これも、ひとつの演出となりそうな気がしてくる。
クワッドにおける演出というのは、歩みの熟練度のどの辺りを持って「良し」とするかではないだろうかと思えときた。
映像を観ながら、色々な想像が湧いてくる。
クワッドを環境ビデオとして酒場の壁で延々と上映したらどうだろう、とか。
山海塾の方々にしていただいたらどうだろうか、とか。
本当に、クワッドの大会が開催されても面白いのでは、とか(岡田氏と清水氏が雑談で、クワッドが市民権を得て、ブームになって、大会が札幌で開かれるという冗談が展開されていた経緯がある)。
クワッドには麻薬性と、想像力を呼び覚ます力があるらしい。上演を観るたびに評価のレベルがあがってくる作品でもあるのだろうか?・・・本当に、不思議な作品だと思う。

ビデオを観終わった後、清水氏の表情が明るい。何かを吹っ切れた様な表情、表現のしようのない絶妙な納得感が漂っている。先ほどの「行き詰まり」感が薄らいでいる。
何だか、ショーイングが楽しみになってきた。


posted by sapporo at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 2007年/岡田ゼミ・レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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