2007年08月04日

7月23日(月)&24日(火) 岡田×渡辺クラス レポート

大切なのはイメージ、邪魔なのもイメージ

文・脇野定則(ボランティアスタッフ)

ベケットは偉大な戯曲家であるのは疑いようがない。でも、哲学的で、取っ付き難い。それが私の印象である。このクラスで扱う「行ったり来たり」も何となく小難しい感じがしていた。その感覚は、今でも残っている。
ただ、この作品は、もう少し素直に楽しんでも良いかもしれない。そんな印象を持つに至った講義でもあった。

「行ったり来たり」は、3人の女性が椅子に座って進んでいく。時折、誰か1人が席を立つと、残った2人が悪口と思われる内緒話をする。それを繰り返しながら、最後は3人で(一見)仲良く手をつないで終わる。
この女性たちが3人揃う時には無表情で、2人になった途端に表情が現れる。その対象性が印象的な劇である。
台詞も動作も多くなく、時間も数分程度の劇である。
一見、簡単である。
でも、塾生は四苦八苦を強いられていた。
塾生に求められたのは「そこに存在するために必要な、最小限のイメージだけを維持する」ことであった。
言葉にすると簡単である。でも・・・
「そこに存在するて何?」
「必要なのは最小限のイメージだけて何?」
「維持するのに必要なのは何?」
こう書かれると難しさが分かってくるかもしれない。
特に「必要なのは最小限のイメージだけ」という下りである。「だけ」である。少なくても、多くてもいけないのである。そして、その「だけ」を維持し続けなければならないのである。
塾生が、四苦八苦にもなろうというものだ。岡田氏は、イメージを「絵」として表現した。曖昧な言葉だ。
「砂糖5グラムを、摂氏70度の蒸留水200ccに入れ、完全に溶解させる」くらいにまでに具体的ならば、誤解も生まれまい。
だが、演劇は人が演じるし、人には感性というものがあり、感性は人により形を異にする。
岡田氏の「絵」という言葉の真意が、塾生には届かない。塾生は自身の持つ「絵」に対する感性で受け取ってしまい、そこから離れられない。
岡田氏の言う「絵」の真意が、自分の感性の「絵」ではないことになかなか気付かない。
気付いても、その先に進めない。岡田氏の言う「絵」が何を示すのか、自分の持つ感性では「どんな名前」を持っているのか。その作業を繰り返し行うが、堂々巡りを繰り返して、なかなか次の扉を開けない。そんな状態が続く。
じりじりとした時間だけが流れていく。
一見無駄に見える時間。でも、塾生が、スキルを見つける為には必要な時間である。

結局は「その演出家が意図する舞台に必要な『絵』だけを特化させ、それ以外は捨てろ」ということなのだが、お互いの言葉(ニュアンス)やイメージが異なるので、どうしても擦れ違いが起こる。その擦れ違いを、会話によって、徐々に小さくしていく作業である。

岡田氏も、渡辺氏も、塾生達に理解させるために、体得させるために、中身の同じ違う言葉を探し出しては口にしていく。
「感情を持つ前に、『絵』が確定しないと駄目である」
「『絵』あるから喋り出すのであって、喋り出すために『絵』が存在するのではない」
「必要な『絵』には良し悪しはなくて、ただ台詞を言うのに必要な『絵』か否かでしかない」
「誰々に殴られたから嫌いというのはあり得るけれど、単に誰々は嫌いと言うのはない」
「嬉しいと思うから嬉しいのではなくて、気が付いたら嬉しいと思っているはず」等々。
この作業が繰り返し行われて、塾生は次第に求められていることに漠然とは気が付いていく。

気が付いても漠然であるから、まだまだ明確な形として掌に乗せる、頭の中に入れるまでは至らない。また、じりじりとした時間が進む。必要な時間が進む。

掌に乗せられる段階になっても、今度は維持に苦しむ。集中力を保って「絵」を維持しながら、台詞を喋り、演技をすることが難しい。塾生に必要な長い時間が過ぎていく。
そこでもまた時間が過ぎていく。
岡田氏、渡辺氏から辛い指摘がとぶ。
「どんなに設定しも、作為しても、それが維持できなければ、それは意味がない」
「後半になればなるほど、『絵』を持った台詞が作れなくなっている。逆に言えば、『絵』さえしっかりしていれば、舌足らずな台詞でも観客には伝わっていく」
そうは言われても、塾生はなかなかそれを自分の物に出来ない。一歩も進めていない状況がが続く。

日が変わっても、その課題で塾生は足止めを食らう。
台詞が頭の中に固定し切れていないと言うネックもある。
それに対して、
「台詞(という段取り)に頼っていては、良い演技は出来ない」
「台詞をあまり覚えていないと言う状況は、良いトレーニングの機会である。台詞が飛んでしまっても、その場に存在していられるか(『絵』を維持していられるか)か否か、演技を続けられるか否かを試すことができる」と指摘される。

やはり、台詞が絡むと「絵」が飛んでしまう傾向が強い事に対して、
「言葉を発する時と、言葉を発しないときで、頭にある『絵』が切り替わるということは、台詞に負けてしまっていると言うこと」
「『絵』を見ながら台詞を言うときには、前足に重心を置いては駄目で、常に後ろ足に重心を掛け続けること」と指示が出される。

塾生から「力まないようにしてるが、なかなか自意識が消せない」という事が出る。
岡田氏が答える。
「自意識を問題にしても仕方がない(存在するんだから仕方がない)。だから、演出家が自意識の置き場所をしっかりと教えてあげる事になる。これが技術を教えることである」
「(俳優に)綱渡りをする技術を求めるのではなくて、綱渡りをしないですむような幅広い橋を用意してあげるのが、演出家の仕事になる」

他の塾生からも「動きが入ると、イメージが崩れてしまう」との声。
岡田氏答えて「やはり、前足(体の反応)に重心を置かないように努力すべきである」
更に発展させていく。
「繰り返し(の練習)は演劇の本質だから、それに対して『飽きる』という事を如何に克服するかである」
「よほどのことがない限り、体(の動き)は持て余すことの方が多い。この持て余すという事実を素直に認めてあげる」
「ポーズは内側から動いてくるものであり、外から捉えようとしてはいけない。体の何処に負荷がかかるかということをしっかりと認識すべきである」

これほどに諭されても、塾生の体は「絵」をしっかりと内包するには至れない。
まぁ、困難な作業であるから、当然と言えば当然である。
この先も、何ヶ月も、いや何年も掛かって克服して行くべき課題であろう。
posted by sapporo at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 2007年/岡田ゼミ・レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/50575460

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。